・1961年(昭和36年)09月18日(月)第一期生入寮希望者抽選
・1961年(昭和36年)09月19日(月)書類提出
・1961年(昭和36年)09月27日(水)大隈講堂にて面接
・1961年(昭和36年)09月28日(木)入寮者発表
・1961年(昭和36年)10月07日(土)寮生活開始
・1962年(昭和37年)学生寮このごろ(新聞記事最下段に掲載)
・1968年(昭和43年)第一回田無寮OB会開催(京都)
・2007年(平成19年)03月建替え工事の為解体
・2009年(平成21年)最後の寮生卒業 ※在籍者総数735名
<その後>
・2014年(平成26年)新生、国際学生寮WISHとして開寮
・2020年(令和02年)田無紺碧寮(体育各部学生専用寮)
寮歌はただいま作成中
〇・・”都の西北早稲田の杜”から西武新宿線で約四十分、東京都下田無(たなし)町南芝久保1411番地。鉄筋コンクリート四階建てのきれいなアパート式寮だ。早大には、近くに木造のオンボロ東伏見寮という先輩寮がある。
在学生二万余りというのに、つい最近まで定員六十人のこの東伏見寮たった1つ。地方出身者の割り合が多いワセダとしては不つごう千万、大学理事者が気づいたわけでもあるまいが、一昨年十月に新築した。
”近代設備”が面看板で、全部で三十七室。これを二人組みで使っているから定員七十四人になる。
交通地獄と住宅難は学生の世界も例外でない。
毎年、新入生の入寮希望者が定員の何百倍も殺到する。歳末大売り出しで使うガラガラ式抽選機で定員の倍くらいにフルイをかけ、さらに学生部長らの厳重な面接があって、二十人ぐらいが幸運にありつく。『ぜったいモグリ入寮はありません』と学生部でもたいこばんを押していた。
〇・・寮費は年額三万六千円。これを四月、九月、一月の各十五日まで分割納入する。が、これだけではすまない。食費が朝四十円、夕六十円の一日計百円。安いことも安いが、まかないなしの東伏見寮に比べると、待遇のいいほうだろう。
もっとも田無の地名とうらはらに、田んぼと武蔵野の林のなかに建てた寮のことだから、まかないをつけなければ、食い気ざかりの学生たちがひぼしになる危険はある。
寮の張り出しには、今月分の食費未納者二十人ばかりに”トクソク状”が出ていた。古参寮生に”月の費生活費は?”と聞いたら『バイトもあるし、まあ一万四、五千円もあれば・・』とのこと。
たまには一パイの費用もふくめてのことらしい。
〇・・日中たずねても、ほとんど在寮者はいない。”学校かな、それともバイト?デイト?
『いやみんな真面目に講義に出ているようです』とは脇田寮長。あながち故郷の父母向け放送とはとるまい。
故郷といえば道産子寮生は四人。羽幌出身の吉本雅昭君(政経四年)滝川出身の田中忠昭君(商学二年)の両先輩に、新人として東旭川町の山田寿春君、黒松内村の山田高敬君(政経)が加わった。この八日に本年度初の寮総会があって、どうにか顔合わせを終わったそうだが、両山田君はまだ先輩の間で心細そうな表情。
寮長、副寮長の下に企画、管理、労務委員が各二人、それで運営委員会を持ち、学生たちで完全自治制をしている。
『なにしろ歴史が浅いので寮のカラーを作りあげるのはこれから。寮歌なども目下陣痛中といったところだが、仲良く、早稲田スピリット、大隈精神をつかみとるのが目標だ』と寮生たちは意気盛んだ。寮祭はことしで二回目、今月の二四日、五の両日に開く。講演会やら演芸会、そして二階には”食堂街”を特設して天下の食通?やゲテモノ食いが腕をふるうという。
ともあれ開寮当時話は野中の一軒家みたいだったのが、あっという間に民家が建て込んできた。
開学八十周年記念で、もう一むね建つという話もあり『東大駒場などに負けない学生村を作りたいものだ』という寮生たちだ。
掲載日:2020/05/27
【参考】
参考:昭和47年施行 田無学生寮運営委員会規約
参考:平成20年施行 早稲田大学田無学生寮 寮内規則